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実家から野菜が送られてきて、辣韮(らっきょう)も入っていた。
母がつくった、甘酢漬け。
店に持っていって、食べたい人にお裾分けしたのだけど好評だった。
私が食べても美味しいと思う。とても美味しい。
味わってみて、やはり自分の料理が母の味加減に似るんだなぁと感じた。
つまり自分の料理が褒められるということは、母の才能(?)を褒められることに通じている。
言葉(言葉遣い)、センス、技、情報…
人って子どもをもつ事以外にも、「DNA」が働いてるし働かせることができるのよね。
そんなわけで、らっきょう、瓶には、もう3分の1しか残ってないw
って、安室奈美恵ちゃんの初期のアルバムみたいやんw
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新・権力者日記 石渕 聡:7月8日
最後に、「何か、質問はあるかああっ?」っと、勢いよく聞きましたら、ある学生が、「先生は、若い時と、今と変わったことがありますか?」という、直球がきたのだ。
その質問を受けて、私は、水を得た魚のように、自分の18、19、20歳のころ何を考えて、どこに向かっていたのかを語り、そして、最後には、「まあ、結局は、多くの者が、なんだかんだ言っても、自分の10代後半の人生観で一生を終えるものだよ、だからみんな、、、、人生観を変えるのもみんなにとっては今が最後のチャンスなんよう!!」なんて言ったりして、思い返すとかなり恥ずかしくも、でもとてもよい時間でした。
桐朋諸君、短い期間だったが、ありがとう。これからの健闘を心から祈っている。
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その通り!と言えるまでには、もうしばらく生きておく必要があるんで(人の人生を知るにしてもそう)、そうかもなあ、ぐらいで。
で、あたしが18、19、20歳の頃何を考えてどこへ向かってたかというと、いま眠くて、ちょっとハッキリ思い出せない…。
女性の都合上、ただいま脳味噌の中のホルモン流れる蛇口がひねりっぱなしで眠いのよ…。それにしても今回は眠気がすごいな。
なんかもう一人の自分が見たら「すごい痛い人だなあ」という印象はある。それは今もだけど…。
本棚にハタチ前に買った本があるだろうから、週末にでもほじくり返してみようかな。
「何々して欲しい」という欲求・要望の受け皿として様々なサービスがある。
当事者の片方ないし双方が主体的に「何々したい」と思い、実践するとき、コミュニケーションがうまれる。
コミュニケーションにも善し悪しがあって、何が善し悪しなのかという話にすら善し悪しがある現状だけど、
質の高い、滋養のあるサービスにはコミュニケーションが含まれている。
久々に自分のことを(ここに)書く。
とりとめもなくなるかもしれないけど、文章もきれいに成形されてないだろうけど、邪魔くさかったら適当に読み流して。
なんか、自分のなかに優しさが育てばいいなと思う。
人に気を配れてないわけじゃない。
けれど本当に人と自分とが、お腹のところからちゃんと開いて、むきあってる感じで出される優しさ、そういうのがあまり発揮できていない感じがする。
怯えるのも、ごく普通の人の、ごく流行の(この世相をうけた)反応だと思う。
肩の荷が降りて自信が持てて、大丈夫。ってなって、人に幸せを分けてあげられるようになったら、やっとそこで神様からご褒美がもらえるかもらえないかって感じなんだろう。
ご褒美は欲しいけど、まずはそういう状態になれたらなと思う。もうそれだけで充分かも。
さっき言ったのと繰り返しになるけど、私は人に何も与えられてないわけではない。
食べ物、お酒をつくったり、会話をしていてポンと絶妙なタイミングでツッコミを入れたり、知っている人に挨拶をしたり、仕事がんばったり、仲間や友人にメールを送ったり、ただ嬉しい気持ちでニコニコしたり…。
でも、迷いの方がうんと厚くて、うろうろしていたんじゃ、神様もチャンスもこっちを見つけられないだろう。
優しさが育てばいいなと思う。
それは、まだまだだ、もっともっと、という飢餓感、焦りからくるものではなく、きっと、願いからきていると思う。
自分の到達点は、尺で言えば他人しか判らないものだろうけど実感で言えば自分しか決めることができないと思う。
いまは、もう少しだと感じています。
さきほどの記事と全く何の脈絡がないのですが、私のWeb仕事史における最初の会社では「インターネット企画室」という部署に配属されていました。2001年くらいの話です。
それを、あるタイミングで「Web企画室にしましょう」と上司に訴え、実際そうしてもらいました(2002年くらい)。
たぶん今も、その名前だと思います。
変えてよかったような、いや変えない方が一巡して味があるような。
元旦はその後、ソファーに突っ伏してウトウトしてたら親友のTから折り返し電話がきて、あれこれウダウダ喋った。
Tと電話で喋るのは、誕生日以来だった。Tと私はちょうど1年違いの同じ日に生まれた。
新年らしからぬウダウダさでしたが正月らしいウダウダさで、なかなかウダウダ喋る相手も居ないので良かった。
それからベッドに移動して3時間くらい寝る。
起きて、本を読みつつ風呂に浸かって、ベッドに戻ってからも本を読んで、午前2時くらいに眠りについた。
1月2日。
午前に親から餅が送られてきたのを受け取って、二度寝。
合計12時間ほど寝ていた。
夢見は悪かった。
ネイルサロンに予約したら19時半からとなりますと言われ、寝過ぎてボケていたのでそれはそれでいいかなぁと。
雑煮をつくって、mixiに親から送られてきた荷物の話を書いて、シャワー浴びて出かけて、小田急で美味い日本酒を買って店番している店へ持っていく。いそぎネイルサロンへ。ネイルサロンは雑貨屋と併設されていて、安くなってたのでハート柄のプリントされたカットソーを買う。
おねえさんの手際が良くて、いいなと思った。こんどこっちに通おうかな。今回は、ホワイト系の細かいラメのグラデーションに、指一本1箇所だけ赤いハートの絵を入れてもらった。ハートは可愛いけど、ちょっと離れてみると手をケガして血を出しているみたいかも。
渋谷で夕飯を食べて、新宿へ移動。「ユイット」というカフェに行きたかったけど1月2日まで正月休み。
近くのコーヒー屋で読書。身体にやさしくハーブティーにしようと思ったけど、だるくなるとその後が辛いのでコーヒーにして、テンション落とさないようにちょっと注意した。
店番は3時で終了。
営業中、お客に不機嫌になる事を言われて「帰れ!」と言った。揉めたりはしなかった。この人の口の悪さは身内では有名だし、この人を含めてのコミュニティという部分もあるので、後味悪い感じにしたくなくて、ちゃんとお金払ってもらって、ダラダラと居座る感じだったのでだから帰ってと言ったじゃんと促して、気をつけてねと見送りの挨拶もした。
結構、私の中で厳しいと思った人へそれなりの対応をするようになって、いなし方も覚えるようになったと思う。
片付けを終えて出たのが4時。頭が冴えていたし、そんなに疲れていなかったので歩いて帰った。
家でまたmixi日記。たわいないというか、たわけたことを書く。
本読みながら1時間ほどお風呂につかって、いまさっきお腹が空いてきたけど我慢して寝るとします。
明日、というか今日はまた夕方から仕事。
年末、おそばを食べながら思ったんだけど、
才能っていうのは、いかに自分だけの感性を信じて
世の中に出せるか?ということではないかと。
こんなのはずかしい〜なんていうことを
(稚拙だとか、照れくさいだとか、全部ふくめて)
いかに堂々とやるか。
表現なんて、全然難しくはないんだけど、
どれだけ子供みたいにただ出てくる物を楽しむか、みたいな。
これ、長年プロをやってる人が言ってるという前提ありきなんだけど。
自分を信じないで、なのに自分の感情とか欲求ばっかりがいっぱい含まれてる文章を書き殴ってる私は反省。
一方でこういうと傲慢げだけど、もう文章については当分叱る人とかダメだしとか要らないとも思った。
だめだめな箇所は沢山ある。見つけろと言ったら湧いてくるんじゃないか。それは文章も個人そのものも同じく。
完璧なものとか論破できるものを目指すのか、それが重要なのか?
行動していないこととか判らないことについて論じる時、とくにそうなりがちだよね。わからないって言いにくいときとかも。
東京の外はいま、今年2回目の夕焼けです。
今年は、なんだかなあ、年の瀬までドブンと落ちて窒息しては何とか浮上してブハアと呼吸を取り戻してんなあ。
あいにくというか、むしろこれが基本形なんだろうな。
あと、ブログ記事の数が、去年の半分だったん。
twitterとかmixiとか、あちこちに書き殴ってたのもあるし、言葉を出す気力がなくて、引きこもり・外こもりだったのもある。
去年は、キラキラしたものを見つけたか、キラキラしたものを見せたくて、そんな私がキラキラしていたのか。
まだちょっと元気が足りない。横になろうかな。
こないだ、CSS Nite後の飲み会で出演者のやのりん(のやのりん、じゃなくて)さんと「書くこと」について話したんだけど、
「いかに感情から自分を切り離すか」と言われた。
(言葉違ってたらごめんなさい>やのりん)
「むずかしいところだよね、感情があるから書き出すのに、書く時は感情から自分を切り離さないと人に見せられたものにならないんだよね」(意訳まじってます)とも。
まあこれは、ライターとして取材記事とか書籍とか雑誌で言葉を発しているプロの方が、書くことについて悩める少年(や、女ですけど私)に仰ったことであって、そもそも私の情報(私が何者なのか、とか、どんな日本語を書き散らかしているかについて)って、あまり無い状態で答えてもらったという前提なのね。
(その節はありがとうございました>やのりん)
(以下、思い切り私の話です>読者のみなさま)
ブログというのは本人さえそうだと定義すれば「吠え場」になりますわね(mixi,twitter含む)。
私小説なんかは違うかも。エロスなことや恨み辛みを書いていても、恨み辛みしてる自分の「記録」だったりするもん。恨み辛みがエンターテイメントだもん。
対価を支払われる文章とは読み手、ないし最初の読み手である編集者なりクライアントに伝わってなんぼ、ものによっては期待を上回ってなんぼですもの。中にはそうじゃないものもあるけれど、そういうルールなの。たーだ、紙とか画面を文字で埋めろって話じゃないから。
そんなわけで、ネットにつなげれば開設・利用料ともに無料の「Vox」で人よりちょっと沢山書き殴っている、ずぶの素人の私は今、とある事で怒っているのですけど、「とある」の中身、つまり怒りの理由とか、感情の内訳を並べていても駄文といいますか「けっ、なにこいつ怒ってやがって幼稚なことしか言えねえでやんの、そんな低レベルがウヨウヨいる世の中おかしいよね。ばっかじゃん」と他人様に見下され彼ないし彼女の優越感や納得感を引き出しかね、もしくは読み手の感情を害することにもなりかねまして、怒りの理由だとか、怒りの態度なり感情の「見える化」的な事を書かないと伝わらないというのが筋なのですね。
まあ、そもそもプライバシーに関わる事を言いたくない(言えない)という事情で理由が言えなかったりもしますが。
それはおいておいて。
特にプライドは高くないのですが、なんかこの日本においては「人として当たり前」な技能である読み書きに関わる事を敢えて言われるとムッとするというか、内容を整理して書けと言われる(ないし、そう自分に言い聞かせる)のは何か嫌で書きながら自分の書いた言葉がつまらなく感じて、たいへん健康に良くないのだけど、人の目に触れる以上は気をつかわないといけません。思いやり、譲り合い、歳末助け合いです。
百歩譲って、人の感情を害しないよう表現や言葉の強さなんかも調整して、かつ怒りの理由なり私はどうしたいのかとか書くとしましょう。まず結論から書けという金言もあったりしますし。ちなみに仕事の文章だとその通りなのですけどそれ以外でしたら順序的に最初に結論を書く必要はなくて、書く前に結論を念頭に置いておくと文章に筋が通るし、書きながら迷うことがなくなるんだよ(日本人向けの日本語の文章は)。
そうやって書いていくうちに、とっくに怒ってなくない?私。となるわけで、じゃあその文章って怒ってる人の文章なのか?文章から怒りが伝わってくるのか?たんに怒りの記録なのか?どっかに意見があれば意見文、ダメだしが入っていれば批判文とか罵りの文ではないか?それって、書き出した時からクールじゃないと「頭でっかち尻すぼみ」じゃあないか。
賢い方は簡単に答えを持ってるんだと思います。直立不動で吠える私に「膝かっくん」するような感じで。
あーーーー楽しかった!
と、思いのまま口にしただけなのだけど、その言葉を見て・聞いて心を痛める人がいるのかもわかんない。
だから、たとえば楽しいって時も、そう思ったり言うのは自由ではあるけれど、気を配れたらいいなと思った。
それと楽しい・幸せって思うときは、これまでそうだった時よりも、より広くいろんな人や出来事に思いを馳せたいと思った。
ポンと思いついたこと。
私はそうしよう思ったこと。